最近の実写アニメキャラCMへの違和感
アニメ実写CMに感じる違和感
ここ数ヶ月でアニメや漫画のキャラクターが実写で登場するCMがいくつかオンエアされた。
ネオファースト生命とZOZOTOWNは『ゲゲゲの鬼太郎』、ソフトバンクは『セーラームーン』や『鉄腕アトム』『ゴルゴ13』などのキャラクター達を豪華役者陣を使い、実写映像化した。
これまでもTOYOTAのCMでは『ドラえもん』、グリコのCMでは『サザエさん』が実写化されたこともあったが、ここ最近のアニメ実写CMには何か違和感を感じるのだ。
実際、ソフトバンクのCMは「原作無視」「敬意がない」としてネット記事にも取り上げられ、SNSでも賛同の声が多く上がっている。
ファンは「原作レイプ」を許さない
ネオファースト生命のゲゲゲの鬼太郎CMでは、二階堂ふみが目玉の親父の妻、鬼太郎の母親を演じ、夫である目玉の親父の健康を気遣うという内容。
家などのセットは原作の雰囲気にも近いように思うが、「鬼太郎の母親」という設定が鬼太郎ファンにとっては引っかかってしまう。
目玉の親父は有名なキャラなので鬼太郎の母親について知る人もあまり多くないとは思うが、原作では鬼太郎が生まれる前に病死した幽霊族という設定で、死んだ母親の墓から鬼太郎が這い出してくる誕生シーンは鬼太郎ファンなら知っていて当然なのだ。
ファッション系サイトZOZOTOWNのCMでは、大島優子、浅野忠信、土屋アンナがそれぞれ鬼太郎、ねずみ男、ねこ娘を演じている。
ファッションサイトということで衣装が大胆にアレンジされているが、何よりも気になるのは「鬼太郎が片目じゃない」という点だ。鬼太郎のトレードマークであるはずの「失くした片目を髪の毛で隠している」という設定がざっくりと改変されている。
豪華キャラクター共演のソフトバンクCMについては、いちいちツッコんでいてはキリがないので割愛するが、こちらについては「設定が違う」という範疇の問題ですらないように思う。言うなれば「愛も夢もないパロディ作品」だ。
ファンはこうした「原作の設定やイメージとかけ離れた第三者による創作」についてはかなり厳しい。原作を愛していれば愛しているほど、他者の都合や勝手な解釈で原作が汚されることが許せないのだ。
こうしたファンによる反発は、アニメや漫画の実写ドラマ化、映画化の度に必ず起こる。ファンの怒りはSNSを通じて拡散、炎上し、まとめられる。映画版『進撃の巨人』の騒動は記憶に新しい。
原作の設定やイメージを守るメリット、破るメリット
これらCMの制作側は、原作の設定を知らないで作っているのだろうか?あるいは設定を改変したところで大した問題ではないと思っているだろうか?
「原作の設定やイメージと違う」
これまでのアニメ実写映画、ドラマなどでファンが反発する理由は間違いなく「その一点」だ。そんな一般人でもなんとなく分かるようなことをマーケティングのプロである広告代理店が気づいていないとは思えない。
それでもなぜ同じようなことが起きるのだろうか?
おそらく「原作の設定やイメージを守ったところで商業的には大して得をしない」ということではないかと思う。
設定を調べ尽くし、それを忠実に守ったとしても、一部のファンが「当然」と思うだけでその部分は決して話題にもならない。設定を守って表現の制約をうけるより、むしろ設定を破ってでもインパクトを残す方が「広告」という意味ではメリットがあるのだと思う。
反発するファンがいる一方で面白がる人間や知らずに楽しむ人間も一定数存在するだろうし、ファンの怒りを買うなら買うで炎上すれば話題にもなる。
一連のCMを見ていると「作品の重要な設定やイメージをわざと崩して使う」という方法論が確立されつつあるように思うのだ。
そんな方法論って善なのか悪なのか?
好きな作品やキャラクターが広告や話題性のためだけに都合よく利用されるのは、熱狂的なファンにとってあまり気持ちのいいものではないが、使われる側である原作者、製作者、権利者などにとってはメリットも少なくないだろう。
どんな使われ方であろうと、人目に触れるのであれば、間違いなくその作品やキャラクターの認知度=価値をより高めることができる。(それ以前にその作品やキャラクター自体に価値がなければ起用さえされない)
むしろ設定やイメージを覆すことでこれまでになかった価値を創出できるから、原作者、権利者にとってはデメリットよりメリットの方が多そうだ。
大好きな作品やキャラクターが話題性のために利用されるだけでも腹立たしいのに、炎上したら炎上したで話題になってしまう(CM制作側の思う壺?)というのは、ファンからしてみれば八方塞がりのような気もしなくはない。
個人的には「素晴らしい作品ほど時代によってその価値や扱われ方は変化するもの」と考えるのがいいように思うがいかがだろうか。